セブンス・コンチネント - ミヒャエル・ハネケ監督

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 よくもまあこんな映画を撮ったものだ。それもデビュー作で。

 ミヒャエル・ハネケの映画はファニーゲームだけは見た事があったので、本作も勿論それなりの覚悟を持って観賞し始め、そして事実結末は予想通りではあったのだが、それでも尚思っていた以上の衝撃とカタルシス。特典にあった監督インタビューの言そのままだが、これは成熟しきってしまった現代社会を生きる人々すべてに通底する、虚無を巡る寓話だ。

※以下、結末に触れています。

  どこにでもいるような、幸福そうな3人家族。とても可愛い10歳位の娘に、順調に出世街道を邁進するお父さん。更に美人のお母さんは実弟と店を経営しており、暮らし向きは裕福。リビングには大きな水槽に多数の鑑賞魚を飼っている。しかし映画冒頭、そんな彼らの幸福なはずの生活は、接写のカットを多用した執拗な演出により、とても不穏なものにうつる。目覚まし時計に伸びる手や、掴まれるドアノブ。混ぜられるシリアルや注がれるコーヒーはその全てのシーンで人体は一部しか映されず、極めつけは、引きで撮られている食卓の全景すら、器用に3人家族の顔だけが映らない。よくコメディ作品などで登場人物が全裸になった時、画面手前に配された花びんで奥の人物の陰部が丁度隠れているなどの演出があるが、丁度あのような雰囲気で逆に顔だけが見えない感じ。この部分の演出は直接には、社会的な生活やその象徴たる数々の道具=物質達を維持する為に最早人間の生があるという本末転倒の皮肉や虚しさを謳ったものなのだろうが、それ以上に、単純に怖い。文字通り顔が見えないというのは、それだけで何と不安なのだろう。

 彼ら3人それぞれの生活に、一応暗部は描写されている。娘はやや情緒に不安定なところがあり学校でいきなり盲目のふりをしてみたりするし、母親は親を最近亡くし参っているが自分もそんな状態のなか更に、自分以上に参ってしまった弟を半ば介護している。そのストレスか元々そうなのかは知らないが、娘に学校での素行を問いただすシーンでは「正直に言えば叱らない」と言った娘が正直に答えた直後、頬を張り飛ばしたりしてしまう。巨大で無機質な工場で働く夫は、直属の上司との間に何やら不穏なものがありそうだ。また、劇中に登場する様々な不安の象徴。眼鏡屋の客の回想や、交通事故の遺体など。それら全てはラストのカタルシスに向かう直接の原因のようでもあるが、全く関係無いようにも思える。

  そして訪れる終局。このラスト30分に衝撃を受けながら、しかし僕はとても共感していた。むしろ「まあそりゃそうかもね。無理も無いわ」位に思っていた。社会という欺瞞に満ちたシステムにうまく波乗りしつつ、消費し、それなりに楽しみ、そしてやがてただ老いて死んでいくというルーチンとその虚無。どこまでも続く徒労感。最初は小さな違和感みたいなものだったそれが、何かの切っ掛けや何でも無いような偶然でひょいと大きくなってしまった時、あるいは眼前に突き付けられ目を逸らせなくなってしまった時、この家族のような回答は至極当たり前で真っ当の様にすら思える。そして本編中に幾度か挿入される、とてもリゾートには見えない静謐な砂浜のイメージ。存在しない7番目の大陸というタイトルとも相俟ってまるで彼岸の象徴のようなその風景は、本作のラストに絶望的な死や断絶以上の、脱出という開放感を織り込む。

 現代社会の生活者誰もが多かれ少なかれ抱えている平穏とは裏返しの虚無感、そしてそこからの痛みに満ちた解放を余計な理屈や描写で汚す事無く、限りなく純粋に抽出して映画というフォーマットに落とし込む事に成功した稀有な傑作。万一本作が日曜洋画劇場なんかで流れたら皆眉をひそめながらも、意外とDVDやらかなり売れそうな気がする。